高祖父「政治家 松本源祐」は、なぜ生き神となったか。

祖父、松本源祐(昭和25年75歳逝去)は ①石川県羽咋郡長 ②石川県鳳至郡長 ③石川県能美郡長 ④茨城県行方郡長として4つの群政を牽引した。
石川県では後の白山麓最大の観光拠点に繋がる岩間温泉、道路開発等の大事業成し遂げ、現在も石川県にある開成社に守護神として源祐の神像が祭られている。

さて、さらに詳しい経緯や研究結果は以下に記載していきます。

「ゆりの、ひいひいおじいちゃんは、郡長をやっていて、神社に祭られていて、銅像もあるらしいよ」

子どもの頃、親からこんな話を聞きました。

ひいおじいちゃんとは交流がありましたが、そのお父さんは想像がつきません。

(郡長って何だろう?)

疑問はありましたが、特に調べもせずにこれまで生きてきました。

松本源祐について調べたくなったのは、私が議員を志した頃です。

高祖父も政治家だったらしいことを思い出し、私が議員を志したのは源祐の影響があるのかも知れないと思い始めました。

「郡長」「石川県」「神社」「神像」

戸籍謄本などを調べればいいのでしょうが、色々事情がありこれらのキーワードを親しい親戚から教えてもらい調べました。

すると、石川県白山自然保護センター様が源祐の功績を詳しく記載した冊子を発行していることが分かりました。

注意:以下は白山自然保護センター発行の「はくさん」PDFファイルのリンクです。

hakusan16-3.pdf (ishikawa.lg.jp)

さて、肝心の「松本源裕はなぜ生き神となったか」ですが、エピソードを抜粋して記載します。

当時能美郡だった尾口村で大火があり、尾添の大半を焼失した。再起は不可能とみられたが、松本郡長は3年有余にわたり寝食を忘れ、身をていして救済と復興とにあたり
(1) 岩間温泉の開発
(2) 白山新道路の建設
(3)東荒谷・尾添間の道路新設
という空前絶後とまでいわれた大事業を起こして完遂したのである。

能美郡会を動かして郡費の補助を得、尾口村長や尾添区長等を指揮し、住民の労力を集結して至難の工事を進め、一人の犠牲者も出さず、大正12年8月に完成をみたのである。

尾添の住民は感泣して喜び、郡長の恩徳に報いようと謝恩林を造成して贈ることにした。
松本郡長が固辞してうけなかったので、郡長を生き神様として祭ろうと、尾添の西方の区
有林に社殿を建立して郡長の大礼服姿の陶像を奉斎することにした。

郡制についての情報を調べたとき、郡長とは憎まれる役であったと記載しているものもありました。しかし、源祐は郡長として住民の方々と一緒に懸命に復興にあたったからこそ、生き神として祭られたのだなと、とても嬉しい気持ちになりました。

今回の研究はここまでですが、源祐について調べる内に自分の一族の広がりや、また噂で聞いている源祐よりさらに上のルーツについても少し分かってきました。また何かの機会に調べたいです。

(開成社100周年行事に参加した写真)

『いづかたに住ひなすとも千代八千代我の血筋の者は忘るな』 松本源祐

また、「はくさん」の発行保存、そして文章や写真の引用を快く許可してくださった石川県様、白山自然保護センター様、この度は本当にありがとうございました。また源祐が祭られている開成社の写真をWEBでいくつか見つけましたが綺麗にしてくださっていて、源祐に関わった全ての皆様に感謝いたします。

引用元:石川県/これまでに発行された「普及誌はくさん」第1巻~第25巻 (ishikawa.lg.jp)